agatatokanaeで『青空の切れ間』

岡山は暇な場所です。でも私が広島に行くと広島が暇な場所になって、兵庫に行くと兵庫が暇な場所になって、香川に行くと香川が暇な場所になります。そんな人間になっています。

"attack" `to` "the" "floor"

 基本的には昨日と同じ一日を過ごしたいし、だからこそさっきとおんなじ今を過ごしたいので、次の瞬間の行動もおのずと決まってくる。さっきとおんなじ今「度」を作り出すために、要は一日中ベッドの上から降りてなんか来ないわけになる。そうこうしていると、部屋の中でも自分が生きている空間はベッドの上だけという感覚になってくる。ベッドの上を頂点とする生態系だ。頂点に位置するあーしはご飯を食べる時にベッドを降り、テーブルに食料を並べて食べ始める。するとあーしは食べ終わったので頂点たる身分にふさわしい王座へと寝転がりに戻っていく。

 つまるところ、あーしは部屋の掃除が出来ない人間なのだ。直接行間に書いたのではつまらないので、テンポ感を媒介に伝わっちゃえばいいのに。弁当ガラや皿は鬼が居ぬ間でも自らを洗濯できない。ていうか、あーしは彼らにそこまでは求めてないんだから、食われたら食われたままでほっぽり出されている、かつて箸だったトレイとトレイだった箸(どっちもソースで汚れてるし投げ出されてㇵの字もんね。もう区別なんかないよ、君ら。)に鬼扱いされる必要なくない。となると彼らはそもそも慣用句が当てはまる状況にはいなくなるので、ちょっと気の利いた感じの皮肉を言われる筋合いでもなくなるというわけか。

 でも、何となくの義務感?みたいな感じで結局掃除はする。「なんだしてるのか」じゃない。してないからこそしてることをとりたてられるというわけ。あーし視点ならする必要のない部屋で阿部サダヲがデモンストレーションしていたクイックルワイパーを使ってフローリングをふーきふーき。

 床の掃除にはなんで「かける」を使うんだろう。ほうきがけ、モップがけ、「クイックルかけといて」。少なくともあーしたち人間と人間の忠実な道具たるクイックルワイパーはフローリングになどかかろうはずもない。

 こう考えてみよう。床(フローリング含む)は自らを「かけられるもの」として捉えている。ちっちゃい女の子が憧れているのと同じように傾斜ゼロのフローリングはバラエティ番組とかで見た傾斜がついて「かかる」プリキュアになることを望んでいるのだ。しかし、あーしたちはフローリングに傾斜がつくことは望まない。人間に「かけられる」ことができるのはそうすることを望まれた床としての役割だけでは満足されなかったもののみだ。ただのフローリングには傾斜は望まれず、傾斜を含む役割を持つことで満足されなくなってしまう。でも彼らが傾斜を望むのであればあーしたちはクイックルワイパーをかけ続ける。「かけちゃうぞ」「うわーやめて」「かけちゃうぞ」「うわーやめて」そうしていくうちにあーしたちはや「かけちゃうぞ」「うわーやめて」られるためのごっこ遊びなのか本当に敵幹部に操られてやってやろうと思う怪物なのかが分からなくなってくる。ただ一枚、自分の家の大切なフローリングを笑顔にしたいがためにあーしたちはクイックルワイパーをフローリングに「かけ」始める。もしかしたらそのフローリングはもうプリキュアなんか卒業したかもしれない。

 あそうか、「とびかかる」の「かかる」みたに、汚い床にきれいさが塗りつけられていく移動のイメージから他動詞の「かける」になるのかな。