agatatokanaeで『青空の切れ間』

岡山は暇な場所です。でも私が広島に行くと広島が暇な場所になって、兵庫に行くと兵庫が暇な場所になって、香川に行くと香川が暇な場所になります。そんな人間になっています。

分かれない

 でも、まだ店には入ってない。

 でも、ドア製作者が邪魔をしないでくれたおかげで道路を一本挟んでも全貌にたどり着くまでにはもうそれで十分。

 でも、所詮は全「貌」どまりなわけで、それが何を意味するかは道路を四歩もの時間をかけて渡り切り四歩もかからないほどもある自動ドアが開くまで待ち、すれ違わないようにするためか先に行ってしまったところを続いて通って、たったの二階に行って本屋に入り野球太郎を一応読み切るほどの時間をかけても分からなかった。

 その数十分と四歩未満と四歩前と全貌に至る前にあーしが見たのは、ベビーカーを両手で持ちながらスーパーに入ってすぐの壁に貼ってあるチラシを眺めているお母さんだった。そして全貌に至るにつれて、お母さんの足元に目が行くようになる。ちょっと店の外に体を開き気味にチラシを見ていることはいいけども、右足だけはこっちを指さして入口にある砂落としのマットに足をかけている。そして全貌に至った時、全貌はその薄いピンク色のスニーカーが濃い緑色の砂落としに足をかけ、不自然なほどに横を向いたからだを従えているものとなった。

 全貌が自動ドアの向こうに見えてしまったがためだけに、そこに絵画とかアニメとか見たいな解釈の余地が生まれてしまったのかね。余地があるからこそ、なぜかもしくは余地があるからこそ、そんなものは埋めてしまいたくなる。

 それこそこれが絵画とかアニメとかの表現なら、「母親は子供を育てる存在としての自覚を感じつつ与えられた役割として母親、一人間としてのどちらにもまたがっている購買行動をそれらに横断する形で達成しようとしている。しかし、公的な存在としての自己を達成していることを周囲に見せること、同時に自らが公的人間性を達成していると確認するために社会的要求である砂落としに足をかけている。こうして公的要求に応えつつ、足元から手元にかけて段々と私的要求に応えるよう変わっていっている」とか考えちゃえるんだけど、運よく自動ドア越しに見えただけでお母さんは誰かに作られた表現ではないわけよ。ならばお母さんを抽象化したとしても意味がないし、むしろそうすることで消えちゃう「現実」があるようにも思える。かといってこれをやっぱり京都外大西の西村ッてもっと評価されるべきバッターよな。すげーわかるあきらめた時それはそっくりそのまま世界が面白くなくなる(解釈の余地がなくなる)ようにも思えるのよね。自動ドアがあるからって内側がちょっと表現チックに見えたからって、そこに見えるものとそこにあるものは分けて考えるべきなのか、そして、分けた時にそこにあるべきものは考えるべきなのか。

 スーパーから出る時に砂落としを踏んだ。境目ってふみたくなるじゃろ。だからわざわざグラウンドに入る時は白線を踏まないって意識してたくらいだし、みんな意識してるくらいだし。自動ドアはまだ空いてない。また絵画みたいな表現が見て取れる。絵画の中の人たちにとって、砂落としに足をかけた内側のあーしは「ある」からは分かれているのか。自分を外から見ることなんてできないから、あーし視点だと当然分かれないのよね。

 書いてて思ったけど、そんなの分からない。