agatatokanaeで『青空の切れ間』

岡山は暇な場所です。でも私が広島に行くと広島が暇な場所になって、兵庫に行くと兵庫が暇な場所になって、香川に行くと香川が暇な場所になります。そんな人間になっています。

勝ちの価値

 別に見たいってわけじゃないけど、今日もデーゲームのプロ野球中継が昼過ぎからある。別にやってもやらなくてもいいものの中では比較的やりたいことになるので、多数決的に今日のあーしの体もプロ野球を見るためにセッティングされる。だもんで、プロ野球を見ること以外はプロ野球を見るために体が勝手に排除し始める。やんなきゃいけないことは民主主義的にやっちゃいけないことに格下げされ、もうちょいすると目にも映らなくなっていくはずだ。無駄使いだ。体の機能と時間のどっちかが。

 すると今日はプロ野球を見るまではやることが無くなったので、東京六大学でも見ることとした。立教対東大。かつて地味にお荷物と言われていた立教の姿はもうない。特待生でムッキムキの強豪高校の選手を獲得することができるようになったことで自分で自分を運べるようになってしまった。自分のところでブランドを生産、流通までするようになってしまったのでもう文句のつけようがない。そう考えると、参勤交代は地方大名の経済力を削ぐための政策として知られるけど、参加する人にとっては公共事業的な雇用の場で、大名の列に名を連ねることが出きるラッキーな制度だったのかもしれないね。

 3対2の立教リード。8貝浦の東大の攻撃。東大に対して、もしくは立教に対してエロい気持ちが入ってくる。先頭出塁。ほほう。ここで映像が止まる。リロード、リロード。一回閉じてまた開く。リロード、リロード。やることが消えちゃった。何じゃこれ。東大が勝つとこは課金制なんか。内容によって変わるんか。そんな寿司屋の時価みたいなことがあるんか。

 時価ってよく考えたら。よくわからない。「時価」って表記なのに今この瞬間だとはだれも考えない。市場がどうのとか漁獲量がどうのとか知る以前から、それが「○○産の」サンマとか「△△で獲れた」タコとかと同じ一枚に乗っていることで、今この瞬間の「時」じゃないことは類推していたのかも。でも、基本的に○○と△△がそれぞれの名産地だとは聞いたことがない。聞いたことのない初めての食い物が注文しようと思った瞬間にはもうすでに食べられるべき逸品に様変わりしている。もしかしたら寿司屋はそこに気づいてるのかも。本当は「○○」で選ばれてるんじゃなくて「産のサンマ」で選ばれてることを。時価っていうのは特に騙せるか自信ない産地だから、市場で競りとかやってるやってる画を想像させる。そこで想像される市場はあーしたちの経験のなさゆえに有名な質の高い市場ばかり。すると当然、そこで扱われる物もs質の良いものであり、目の前のバイトの職人が築地で競り落としてきた時価のブリは当然買うべきものになる。「××」と乗せることで、××を上手いことイメージの中で偽装させ「産のブリ」を買わせる。産地偽装は立派な脱税だけど、この手法は見下げた節税といったところかな。 

 初めてこのアプリで六大学を見たのは2017年。慶応の関根が一年春で開幕投手を務めたシーズンから。これだけ長いこと六大学を放送してきた実績があるのだから、そして、六大学野球にはそれだけの実績があるのだから、競り落としてきた商品そのものに自信をもって、こんな節税まがいの時価まがいの課金制まがいの8回以降はやめていただきたい。

 なんでまた篠木投げてるの?今日法政勝たないと明日も絶対投げるでしょ。2年でこれはさすがに投げすぎ。他にもピッチャーいっぱいいるんだからもうちょい我慢せーや。

区別を付けよう

 表札にはいろんなスタイルがある。「山本」だけのストロングスタイルがあれば、でかい「川田」に対して「恭弘、明子、かえで」の多勢に無勢スタイルもある。ていうか羅列系表札の場合絶対最後が平仮名オンリーの名前になってる気がする。「おれたちは最後に崩すことができるんだぜ!」という意思表示なのか。何かのはずみでチェンジアップがウィニングショットにならなかったらどうするのか。ストレートもチェンジアップも世間に、特に対戦相手のご近所様に見せてしまっているのだから文字通り「締まりがない」見栄えになってしまうんじゃないか。

 あーしはアパートの一人暮らしなのでそもそも悩む必要がない。その表札の部屋から出てくる奴はその表札に書かれた文字と対応させればいいだけ。何個も何個も人の名前を書いて人間の区別の準備を周りに促す必要はないし、仮にフルネームを書くのなら、それはもう名前で呼んでくれって言ってるようなもんじゃない?たぶん苗字も名前も同じ大きさで印刷されるだろうけど、社会常識のせいで名前のほうが大きく見えちゃう。人間の認知かくも恐ろしき。

 そういえば昔テレビで、アパートの表札とかに身に覚えのない落書きがあったら泥棒の情報伝達のサインの可能性があるから気をつけろってのを見たことがある。

 蛾が止まってた。たぶんそのレベルの軍事技術はまだ泥棒さん程度の人間のもとにはやってこない。

 しかしなぜ彼らが泥棒さんになってしまうのか問うと、つまりは人生がうまくいっていないからだと思うの。経済的失敗?、劣等感?、愛が足りない?ドロ食らったら死ぬほどむかつくけど何事にも要因があると思うと100%責める気にはなれない。いつもこう。犯人に勝手に肩入れしちゃうからコナン君の映画は大嫌い。あんなん犯人がいたから映画があるんじゃなくて映画があるから犯人がいるってレベルじゃん。近くに白に黒抜きで苗字だけとその横に黄色に赤抜きで「犬」ってついてる表札の一軒家がある。「〇〇〇も△△だ」なんて主張はペットかったことないあーしからしたら興味ないので興味ないあーしの前で主張しないでくれってカンじなんだけど、まあ心情的には分からなくもない。ただ、これだともう「犬」が家族で人間も家族って見えてもしゃーないと思う。人間らしさを失わないために、抵抗の証としてかっこよさげのフォントで、犬ころにばれてしまわないように。

 それに比べたら泥棒なんて控えめでいいもんだよね。あーしにもあーしのご近所さんに対しても、表札でふざけて自分がご主人様よりも前に出ることはない。むしろご主人様には一見わからないように、それでもテレビで特集されるレベルにはバレバレの方法で自分がいることを主張してくる。ノラのしつけがなってない人間がうちによりついてきたって、ちょっと厄介をされたからって、その背景を考えてしまうとやはりうちで情が入っちゃう。なんなら、競争することをやめた犬よりも競争に身をさらされている人間のほうが防犯的な観点からも役に立つかもしれない。もしうちに泥棒がよりついてきたら家族にしよう。でもその時は家庭内の序列をきっちりと示さなきゃだめだから、小っちゃく「泥」。待てよ、泥棒とはいえペットにする相手は人間なのだから「泥」の「棒」はさすがに失礼すぎる。それじゃあ苗字の横に小っちゃく「盗っ人」の「盗」を書きたそう。

 表札を見たご近所さんから区別される人間の出来上がり。

空を見上げて雲を見つ、、

 中指が立っている。この時あーしたちは何を見えているのだろうね。思えば中指が立っているのを見た時、中指の全てを見えているというわけではないような気がする。そう考えると、中指が立っていると思うとき、あーしの目には大抵第一関節までと辛うじて詰めを認識できる程度。そもそも中指が立っているという表現自体が状況に即していなくて、中指単体への線としての注目ではなくて手の甲の延長の面としての認識をしていると感じたってなわけ。点よりも線、線よりも面、ではない。打線が打面になった時、私たちは恐らくバッターボックスという概念を捨て去らねばならなくなるでしょう。そう、まるでそれはテクノロジーを私たちよりも下とみなす私たち人類のようにね。

 そう思えてしまうと途端中指の爪が不憫に思えてくるわ。中指が単独で仕事できる唯一の機会だというのに、指の中で最も注目度のある爪に意識されない閑職を与えて今あーしの心をひとり占めする第一関節とは何者なのか。

 中指が立たされる。そこには主張も問題提起もない。ただ第一関節を立たせ眺めるだけのあーしへの犯行のサイン。第一関節はいつの間にか気づかされていたのか。今自分が世界全てを敵にしてまで人体を代表していることを。広々とした第一関節とは違い爪は空を指して空中を漂う。じゃあなんで中指の爪はまだ中指についているのか。

 誰だってそうかもしれない。第一関節は中指の爪が空を目指せるように自分が中指に背負わされた人間の暗部を全部背負っていることだ。彼女には空を見続けていてほしいから、空を見続ける姿を見せ続けてほしいからそんな彼女が空を見続けてもいいように難しいことは全部自分で引き受けている。幼いころから同じ中指に生まれ、同じ中指を形成する以上は絶対に意識するし、手を握った時には絶対に一つにはなれないってわかっていても顔を見合わせることすらできないお互いが近くに感じれただけで幸せだった。でもある日気付く。そして自分がそれから逃れることができないことにも気付く。「中指たちだけの場所に行くことはかなわない。むしろそれは間違った行為である」と。それでも彼は彼女が空を見上げる姿がずっと見たかった。見ていたかった。一人で。そして彼は、それが間違ったことだと知りつつ、そしてそれが正しいことだと確信して、今日も世界のどこかで視線の矢面になり続ける。

 とはいうものの、手を握った時に親指の爪は見えてるよな。人差し指の第一関節押しのけてだいぶ言い寄られてるようにも見えるのだがね?それはどう思ってたんか。中指の爪よりデブだから「タイプじゃない」と断っていたのか、それとも、、、。

 もしあーしの部屋に隠しカメラを仕掛けた人がいるなら、今だけバチバチに目かっ開いて見てください。自分に中指立ててそれを色んな角度からのぞき込むやつは犯罪で裏をかいて楽しむにはあまりに表側の人間じゃなさすぎるでしょ。

『温泉卵』

 月一なもんだからどっちの感情も湧いてくる。そしてそれは波になる。特に意味もなく外に出て体が動くことに心を弾ませたり、特段とただ外に出ることを嫌がったりしたり。でも、波が空と海のどっちに触れていようが結局は関係ない。日付が変わって防波堤にぶつかるとすごすごと布団から起きだして車に乗り込み発信した時に一瞬目の前が用意したカバンの中身になってそれからは真っすぐにしかならなくなった道路を走っていく。

 サイクリングという物は実はそんなに楽しくない。ではどうしてこの人が毎月第二日曜日にこのコースを私と走っているのか。それはこの人にとってサイクリングという物が楽しいからだと思う。では私にとっては?考えても分からなさそうだったから日本語を折り曲げてこの人で考えようとしたのに、結局はこっちに曲がり戻ってくる。

 やっぱりサイクリングという物が楽しいからという結論は出しちゃいけない気がする。それはもちろん、ちょっと前からサイクリングその物についてずっと考えてしまっているからだよね。サイクリングの最中なのに。毎回じゃん。これ。そこまでは考えるのはめんどくさいけど、何らかのバランスをとらなきゃいけない見たいに毎月一回この時間がやってくる。今の私の行為はサイクリングなのか?体はもう外注といっていいくらいには脳みそからは分からないことをしている。自転車ってどうやってこぐんだ?目線をそのままにしようと意識した時初めて自転車をこぐ足が視界に入ってくる。すると初めて足がこいでいたことに気づく。大体動きはわかった。なら、。足は思ったようには動かず、足が思うようにしか動かない。まだこれが自分の足であることに初めて気づくことはできなかった。そこで初めて気づく。いつもは頭が体を動かしてるけど今は体が頭を動かしてるんじゃね?ほらさっき外注とか思ったし。いつもは頭の中には脳だけじゃなくて体も詰まっている、その一方で今は脳に詰まっていた体が体に宿り頭の容量が減っている。でもそんなに大規模に頭なんて使ったことがないから体が自転車発電みたいに充電してくれているのかも。私は体にそんなことは頼んでない。足りない頭で満足に生きていることに不満どころか今の今まで想像ついてなかったわけで。でも頭の中が空っぽになるせいで脳みそがめちゃ働くのは結構性に合ってるのかも。

 誰のせいでこんなことになってるのかといえばこの人のせいでしょう。

 「休憩ですか。」

「おい。」

「やっぱりサイクリングはいい物ですね。身も心も洗われて普段とは違う自分に毎回気付けるような気がしますよ。いつももこれくらい体が動いてくれたらいいんですけどね。」

「でもなまった体はがたかせて無理に動かさないとギシギシすら言ってくれなくなるからな。」

 そう言ってたんぱく兼食料補給のためにこの人は自転車についている温泉卵をかがんで取り出す。ぬるいのだったら自分は嫌だ。いや、そもそもこんな機会を作ろうと思える人には食べ物の温度なんて今ここでは関係ないのかもしれない。しかし、自転車発電が温泉卵を介して体を動かしているとも考えることができ、もはやサイクリングがこの人を稼働させているようだ。私はそんな風にはなりたくない。趣味なんて所詮は、、、。ましてや自分はサイクリングなんか、、、。

 「それいつ見ても面白いっすね。私も一個貰っていいですか?」

 

分かれない

 でも、まだ店には入ってない。

 でも、ドア製作者が邪魔をしないでくれたおかげで道路を一本挟んでも全貌にたどり着くまでにはもうそれで十分。

 でも、所詮は全「貌」どまりなわけで、それが何を意味するかは道路を四歩もの時間をかけて渡り切り四歩もかからないほどもある自動ドアが開くまで待ち、すれ違わないようにするためか先に行ってしまったところを続いて通って、たったの二階に行って本屋に入り野球太郎を一応読み切るほどの時間をかけても分からなかった。

 その数十分と四歩未満と四歩前と全貌に至る前にあーしが見たのは、ベビーカーを両手で持ちながらスーパーに入ってすぐの壁に貼ってあるチラシを眺めているお母さんだった。そして全貌に至るにつれて、お母さんの足元に目が行くようになる。ちょっと店の外に体を開き気味にチラシを見ていることはいいけども、右足だけはこっちを指さして入口にある砂落としのマットに足をかけている。そして全貌に至った時、全貌はその薄いピンク色のスニーカーが濃い緑色の砂落としに足をかけ、不自然なほどに横を向いたからだを従えているものとなった。

 全貌が自動ドアの向こうに見えてしまったがためだけに、そこに絵画とかアニメとか見たいな解釈の余地が生まれてしまったのかね。余地があるからこそ、なぜかもしくは余地があるからこそ、そんなものは埋めてしまいたくなる。

 それこそこれが絵画とかアニメとかの表現なら、「母親は子供を育てる存在としての自覚を感じつつ与えられた役割として母親、一人間としてのどちらにもまたがっている購買行動をそれらに横断する形で達成しようとしている。しかし、公的な存在としての自己を達成していることを周囲に見せること、同時に自らが公的人間性を達成していると確認するために社会的要求である砂落としに足をかけている。こうして公的要求に応えつつ、足元から手元にかけて段々と私的要求に応えるよう変わっていっている」とか考えちゃえるんだけど、運よく自動ドア越しに見えただけでお母さんは誰かに作られた表現ではないわけよ。ならばお母さんを抽象化したとしても意味がないし、むしろそうすることで消えちゃう「現実」があるようにも思える。かといってこれをやっぱり京都外大西の西村ッてもっと評価されるべきバッターよな。すげーわかるあきらめた時それはそっくりそのまま世界が面白くなくなる(解釈の余地がなくなる)ようにも思えるのよね。自動ドアがあるからって内側がちょっと表現チックに見えたからって、そこに見えるものとそこにあるものは分けて考えるべきなのか、そして、分けた時にそこにあるべきものは考えるべきなのか。

 スーパーから出る時に砂落としを踏んだ。境目ってふみたくなるじゃろ。だからわざわざグラウンドに入る時は白線を踏まないって意識してたくらいだし、みんな意識してるくらいだし。自動ドアはまだ空いてない。また絵画みたいな表現が見て取れる。絵画の中の人たちにとって、砂落としに足をかけた内側のあーしは「ある」からは分かれているのか。自分を外から見ることなんてできないから、あーし視点だと当然分かれないのよね。

 書いてて思ったけど、そんなの分からない。

マンホールに住んでいる人間

 マンホールチルドレンについてのドキュメンタリー番組のタイトルを見たことがある。はい、これでみんな私と同じ前提条件に立ちました。内容としては貧困にあえぐ家族が「表」での、多分、生活をあきらめてひっそりと暮らしていくみたいになってくれててもそうじゃなくてもどうでもいい。タイトルの奥にいた人は日本人っぽくなくてアジアンな感じの人だった。わざわざアジア人みたいな人って言ってるのって、人以外の要素のアジアみたいな人って表現を想定していると思われても仕方ないよね。でも例として「ミソスープみたいな顔してやがるなHaHaHa!」とか言われてもなんかそれはそれで面白いからいいような気もしてきた。人間を人間で例えるよりも物で例える方が納得できちゃう時代がもうここまで来ている。助け合って生きていこうとしている。

 考え方としてはむしろ分かりやすいのよね。神奈川県民とかってことでしょ。マンホールの中で生活してるからマンホールチルドレンで、神奈川県の中で生活してるから神奈川県民。「マンホール」の「人間」と「神奈川県」の「人間」。ナンかヘンなカンじ。人間が住む場所って人間がそもそもいるから住む場所として認識されるわけじゃん。人間がいなけりゃ神奈川県はそこにはいない。でも人間が住まなくってもマンホールはある。だってそこには人間が住んでるから。人間が住んでるのだからマンホールは人間が住む必要はない。つまり、マンホールは人間が住むより前に住んでた人間によって作られた場所であり、人間が住んでいなくてもマンホールとして存在できる。神奈川県民がいないと神奈川県は存在しなかったけどマンホールチルドレンがいなくてもマンホールは存在できる。人間がいるからこそ地面が意識されるのに、人間がいなかろうが意識される対象としてのマンホールは地面を穿ってチャリンコをがたがたと震わせる。この順序が逆な感じが、NHKの食指に触れたのか、順序が正しい感じがNHKの食指に触れなかったのか、ってことなのかにゃ?

 たまに小っちゃいマンホールあるじゃん。マンホールっていうか…やっぱ小っちゃいマンホールっていっちゃうよね。「ガス」とか書いてあってちょい普通のマンホールよりは浮き出てるやつ。マンホールと言っちゃう以上はあそこにもマンホールチルドレンはいたりするんかな。だってあれもマンホールだし。ちょっと浮き出てるのは、小っちゃい分マンホール内の気圧が人間の活動によって上がっている影響を受けるから?水遁の術とか潜水艦の望遠鏡みたいな使われ方をされてるから?

 そもそもあんなに小っちゃいと人間は入れないよね。あぁ、また住んでいる人間がいることが先になってたわ、あーし。住んでる人間がマンホールよりも先で、マンホールが住んでいる人間よりも先。

 

"attack" `to` "the" "floor"

 基本的には昨日と同じ一日を過ごしたいし、だからこそさっきとおんなじ今を過ごしたいので、次の瞬間の行動もおのずと決まってくる。さっきとおんなじ今「度」を作り出すために、要は一日中ベッドの上から降りてなんか来ないわけになる。そうこうしていると、部屋の中でも自分が生きている空間はベッドの上だけという感覚になってくる。ベッドの上を頂点とする生態系だ。頂点に位置するあーしはご飯を食べる時にベッドを降り、テーブルに食料を並べて食べ始める。するとあーしは食べ終わったので頂点たる身分にふさわしい王座へと寝転がりに戻っていく。

 つまるところ、あーしは部屋の掃除が出来ない人間なのだ。直接行間に書いたのではつまらないので、テンポ感を媒介に伝わっちゃえばいいのに。弁当ガラや皿は鬼が居ぬ間でも自らを洗濯できない。ていうか、あーしは彼らにそこまでは求めてないんだから、食われたら食われたままでほっぽり出されている、かつて箸だったトレイとトレイだった箸(どっちもソースで汚れてるし投げ出されてㇵの字もんね。もう区別なんかないよ、君ら。)に鬼扱いされる必要なくない。となると彼らはそもそも慣用句が当てはまる状況にはいなくなるので、ちょっと気の利いた感じの皮肉を言われる筋合いでもなくなるというわけか。

 でも、何となくの義務感?みたいな感じで結局掃除はする。「なんだしてるのか」じゃない。してないからこそしてることをとりたてられるというわけ。あーし視点ならする必要のない部屋で阿部サダヲがデモンストレーションしていたクイックルワイパーを使ってフローリングをふーきふーき。

 床の掃除にはなんで「かける」を使うんだろう。ほうきがけ、モップがけ、「クイックルかけといて」。少なくともあーしたち人間と人間の忠実な道具たるクイックルワイパーはフローリングになどかかろうはずもない。

 こう考えてみよう。床(フローリング含む)は自らを「かけられるもの」として捉えている。ちっちゃい女の子が憧れているのと同じように傾斜ゼロのフローリングはバラエティ番組とかで見た傾斜がついて「かかる」プリキュアになることを望んでいるのだ。しかし、あーしたちはフローリングに傾斜がつくことは望まない。人間に「かけられる」ことができるのはそうすることを望まれた床としての役割だけでは満足されなかったもののみだ。ただのフローリングには傾斜は望まれず、傾斜を含む役割を持つことで満足されなくなってしまう。でも彼らが傾斜を望むのであればあーしたちはクイックルワイパーをかけ続ける。「かけちゃうぞ」「うわーやめて」「かけちゃうぞ」「うわーやめて」そうしていくうちにあーしたちはや「かけちゃうぞ」「うわーやめて」られるためのごっこ遊びなのか本当に敵幹部に操られてやってやろうと思う怪物なのかが分からなくなってくる。ただ一枚、自分の家の大切なフローリングを笑顔にしたいがためにあーしたちはクイックルワイパーをフローリングに「かけ」始める。もしかしたらそのフローリングはもうプリキュアなんか卒業したかもしれない。

 あそうか、「とびかかる」の「かかる」みたに、汚い床にきれいさが塗りつけられていく移動のイメージから他動詞の「かける」になるのかな。